2008年11月23日

トロッコ問題

たけしの日本教育白書2008で、トロッコ問題というのが取り上げられていた。
「作業員は動けない状態」という状況は省略されているから、Wikipediaとか、WIRED VISIONとかに出ている話とはちょっと違う部分もあるが、まぁそこはあまり事の本質ではないので省略したのだろうか。
(この条件がないと、危ないから避けろ!!と叫べばいいだけの気がしたが。。。)


TVでは、「この問題を子どもにどう教えますか」と来た。


私の回答はこう。
「答えない。子供に自身の頭で考えさせる。」

もちろん、「自分で考えろ」という言い方はしない。
子供と共に考え、また、彼・彼女らがさらに考えを発展させるためのヒントを出すだろう。
早期から1つの考えに固執しすぎないように、あえて別の角度からものを考えさせる。
私は自分の部下に対しても日々の課題解決を行うに当たってそのように接している。

この問題には、そもそも正解などない。
こういうのをオープンエンドと言ったかな、確か。
考えて自分なりの答えを出し、それをその後の行動に結びつけることに意味があるのであって、「どう教えますか」という質問の仕方そのものが、正解があることを前提としているようで、どうもしっくりこない。

さて、話をトロッコ問題に戻そう。
私ならこの状況でどういう選択をするだろうか。

* case1
私がこの問題を聞いたとき、最初に思いついたのは、ポイントを半分だけ切り替えて(あるいは線路に石でも置いて)トロッコを脱線させることだ。
トロッコを脱線させてしまえば、6人の作業員の命は全員助かることになる。
この場合、トロッコが無人運転で、トロッコの脱線による被害者がないという前提は置いてはいるが。。。

え?
この問題のルールでは、答えらえる選択肢は2つだって?
そういうことを言う人は、与えられた2つの選択肢が妥当かどうか一瞬でも考えたのだろうか。
現実に起こるさまざまな課題を解決するにはそんな硬い頭では最良の解は見出せないのではないだろうか。
多くの場合、まず「前提を疑う」事が問題の解決へつながる近道だったりする。

いいでしょう。ゲームにルールは必要。
私もルールに則り、ポイントを切り替えるか、切り替えないか、のどちらかから選択することにしよう。

* case2
私ならポイントを切り替える。そもそも何で作業員が線路の上で動けないという意味不明な状況になっているかも説明されていないが、その不可解な状況を素直に受け入れるとすると、ポイントを切り替えた後、動けない1人の作業員の元へ走って行き、その人を線路から引きずり出せばよい。
動けない人というのが1人なら体力的にも時間的にも何とかなる可能性があるが、5人の方にトロッコを進めさせてしまった場合はその可能性が極端に低下する。
もちろん、トロッコのスピード・距離と、自分の足の速さと、動けない人までの距離も関係はするが。。。

トロッコはすぐそこまで迫っていて、ポイントを切り替えた後に作業員の元へ走っていくような時間的な余裕はそもそもないって?
私は宗教は信じないが、そんな切迫した状況で、こんな究極の選択を迫られる状況に遭遇したら、神への悪態もつきたくなるというものだ。
「おお、神よ。あなたは無力な私になぜこのような試練をお与えになるのか。」

* case3
ポイントは切り替えない。いや、正確な表現としては、切り替えられない、だ。
case1、case2は、今こうしてPCに向かいながら、より多くの人命を救うという使命の元、理性的に考えた結果だから言える事だが、ケース2の最後の方に書いたように、トロッコは自分のすぐ目の前のポイント切り替え部分に接近している状況で、2つの経路に5人と1人がそれぞれ「動けない」状況にあるという状況判断、そして、その一瞬で5人と1人の命を天秤にかけるような判断は、少なくとも私には「できない」と思われる。
救急医療とか、消防とか、軍隊とか、日々、危機的状況下でも対応できるような訓練している人々でさえ、実際の現場では判断を誤ることもあるわけで、私のような素人がそのような過酷な状況下ではまともな判断ができるとは思えない。
ということは、呆然として瞬間的には積極的な行動は何もとれないだろうということは容易に想像できる。

* case4
case3では、事故当時、何も手を打たなかったことに対して、世間からバッシングの嵐になることも予想される。
ゴシップ好きの暇人たちには格好の餌だ。
仮に世間から何も言われなかったとしても、何か行動を起こせなかった自分に対して、本当に何もしないでいることが正しかったのか、自問自答の日々が続くだろう。
ノコノコ生き残った自分には、まさに生き地獄というわけだ。
トロッコ問題には、「The fat man」という続きがあるそうだ。
多くの人は、隣の見知らぬ人を橋の上から突き落とさないという回答をし、5人を見殺しにするという結果が出ており、ポイントを切り替える場合と回答に一貫性がないということが指摘されているようだ。
そもそも、1人を線路に突き落としたぐらいで、簡単にトロッコが止められるなら、私が最初にcase1で考えた脱線させるという案がもっともまともな解な気がするし、5人の路線でも1人の路線でもどうせ犠牲者は1人だ(1人を引き殺したところでトロッコは止まる)。
確実に1人の命が犠牲になれば、トロッコは止まるとわかっているなら、case3のような状況になって一生悩み続けるよりは、自分を犠牲にしてトロッコを止めるということも一案だ。
自己防衛本能に逆らっているから生物学的には正しくないが、これで私も歴史に残る英雄になれるというわけだ。

* case5
何もしない。
行動結果はcase3と同じだが、もう少し別の観点で考えて見る。
そもそも、ブレーキの壊れたトロッコが走ってきたとして、そのトロッコが人をひき殺すというのは妄想ではないか。
トロッコがどのぐらいの大きさなのかとか、どのぐらいのスピードか、積荷はどの程度あるのかといった情報がまるでないので、問題文からだけでは考えるに値する状況かどうかも判断しかねる。
これは、Aになったら誰かが死ぬ、Bになっても誰かが死ぬという危機的な状況での究極の選択、という前提条件を疑ったものだ。
この考え方ができれば、自殺や、昨今の「相手は誰でもよかった」という無差別殺人のような事件は無くすことができるのではないか。
自分にとって切迫した、非常に重要なことを選択しなければならないとき、それが本当に悩むほど重大な事なのかを一度客観的に見直してみることは意味がある。
本当は、トロッコが人をひくかどうかが問題なのではなくて(トロッコによっては誰も死なないのだから)、6人もの人間が同時に比較的近い線路の上で動けなくなっている状況の方がずっと問題だったりしないか。
現場は炭鉱かなにかで有毒ガスでも出たのか、テロの仕業か、はたまた集団自殺か。

その他、道徳観を養うという意味では、次のような状況も考えると面白い。
1人の方へポイントを切り替えるという人がいて、5人死ぬより、1人の方が犠牲が少ないというような人がいるとしたら、「5人は赤の他人で、1人の方は自分の親・子供・配偶者・親友のいずれかだったら」という前提をつけてみるといいと思う。
今度は、5人の方を犠牲にすると言い出すだろうか。

こういうことを子供のころから考えさせることは非常に意義があると思う。
現実は、もっと酷い。
この問題に少し似ている状況として思いついたのが、例えば、救急車のたらい回しによって、救急患者が亡くなるという事件が繰り返し発生しているのだから。
posted by mign0n at 01:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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